日韓基本条約までの経緯①

韓国との補償問題は存在しない

締結までに14年の交渉期間があった。交渉しては決裂、交渉決裂の紆余曲折を繰り返し締結された条約を考える。

交渉妥結のカギを握っていた金鍾泌(キムジョンピル)元首相は、近年当時の事を次にように回顧しています。
「生きる為そうしなくてはならない、先ず日本と手を結んで、日本の協力を得ながら出る方法しかない。そうだとすると日本と国交正常化を計る。」

条約交渉の動きは1948年8月15日大韓民国の建国から始まった。
初代大統領、李承晩(イスンマン)は韓国の事を次のように考えていた。
*日本の植民地から独立を果たした戦勝国であり、日本から賠償を得る事ができる。

しかし、韓国は日本と戦争をしていないことを理由に戦勝国には加えられず、中国共産党と共にサンフランシスコ平和会議への参加が許されなかった。

以後、戦後補償の問題は2国間交渉に委ねられることになった。

1950年朝鮮戦争が勃発 アメリカを中心とする国連軍と中国人民義勇軍が参戦して戦争は朝鮮半島全体に広がった。
中国、ソ連を後ろ盾として共産主義勢力が台頭し始めてアメリカはこれを憂慮していた。連合軍総司令官マッカーサー元帥は李承晩に対して日本との国交正常化を要求した。さらにアメリカは韓国と話し合いを持つように働きかけた。

1951年10月、この日から14年に及ぶ長い第1回の交渉が始まった。
日本側の首席代表は外務省顧問松本俊一、 韓国側の首席代表はキムヨンシュク駐日公使でした。
両国はそれぞれ基本条約の草案を提出し合っていた。
会談は冒頭から激しくぶつかり合い、対立の引き金となったのが「韓国併合」を巡る解釈でした。
韓国側は1910年に結ばれたこの条約は、日本の武力による強制されたものであるとしていた。


韓国側草案

第3条 大韓民国と日本は、1910年以前に締結されたすべての条約が無効であることを確認する。「null and void」無効

この第3条について日本側は削除を要求した。
「この条項は日本国民の信義面に、不必要な刺激を与える恐れがある。」
「韓国併合条約が今も有効であると考える日本国民は唯の一人もいない。」

韓国側は反論して
「この第3条が日本国民の感情を刺激するのであれば、それは過去の帝国主義の過ちを今なお清算できていないという事を実証するものではないか。」
「韓日基本条約にこの条項を入れることは、韓国国民の民族感情から出る基本路線である。」
会談の最終盤に参加した韓国側の代表オウチェヒさんによれば、歴史認識の対立問題は第1回から続いた問題でした。

第1回の会談前に韓国側は日本の併合(植民地支配)に対する賠償の金額を試算していた。
それは約20億ドルであり、当時日本の国家予算の3倍に当たる金額でした。
これに対して日本側は逆に韓国側に次の要求を突き付けた。
「日本が朝鮮半島に残してきた財産の返還を要求し、韓国側の要求から差し引く。」
会談は第2回で決裂した。

日本が韓国に残した資産
GHQの試算 1945年8月15日時点 (1ドル=15円)
l 国の財産 総資産59億4000万ドル 【891億2000万円】
l 個人資産 16億7000万ドル  【250億円]